先日久しぶりに増永先生の著書で、通称赤本と称される「指圧」を何気なく読んでいたら、『昔の養生法は精神修養と一つになって考えられていた…』との記述を発見しました。そして記述は『戦後は欧米人なみの体格になりましたが、体力・健康面では欠陥だらけ…』と続き、更に『その反省として根性だ、禅だなどと精神面の手探りが始まりました』とありました。

●メンタルと精神修養
確かに『文明が進むとストレスが強くなって、ノイローゼや心因性の疾患が増える…』との記述を読むまでもなく、現代の病気やトラブルはストレスが大きく関わっている事は今は常識です。しかし心因性なら「精神療法」があるではないかと言っても、そのベースは西洋医学的な精神分析学ですから、その人間を丸ごと理解するには味気ない気もします。先生も『人間の精神の事を忘れた医学が、現代病のノイローゼや老人問題などに積極的な手段を持たない…』と皮肉っています。そこで日本古来の精神修養の必要性を説いているわけです。「精神修養」などと言えば懐古趣味の古臭い道徳観の押しつけのように聞こえますが、言い換えれば心のトレーニングの事でしょう。

●現代人は神経過敏…
人間は心がストレスで揺さぶられると、その影響は神経を介して各臓器に伝わる事は、私たちの日常でもしばし経験する事ですが、しかし考えてみるとストレスをよく感じると言うのは、言い換えると社会的適応性が狭い状態とも言えます。世間が悪いのではなく、自分の適応性が低いがためにカリカリする必要のない事に苛立ち、気にする必要のない些細なことにも過敏になる。そしてその都度、神経を異常興奮させ体に悪影響を及ぼしている。このような事は私たちは日常的に経験している事です。

つまり刺激に惑わされず揺さぶられない「心」と「観念」を保持していれば、ストレスは大分和らぐ事を意味します。精神の訓練を「悟り」ではなく、ストレスに対する心の統御法だと考えれば、健康面で大いに意味あるものだと言えます。これをメンタルトレーニングと言わず、精神修養と言ったのは生活全般を通して行う訓練だからでしょうね。


瞑想