長い指圧師人生でしたが、指圧を極めたかと聞かれれば「いいえ」としか答えられません。セミナーなどでは、すべて解ったような顔をしていますが、実際は今だ解らない事が多いというのが実感です。生来性格が大雑把なので『いずれ解るさ…』とタカを括っていましたが、私ももう60代後半に突入しました。かつての医王会の最後の先輩も先日リタイヤされ、昔を知る人は居なくなってしまいました。

●経絡指圧との出会い
思えば経絡指圧の魅力に取りつかれたのが、私が20歳のときでした。希望に満ちて進学した大学では来る日も無味乾燥な授業ばかりで嫌気がさしていました。そして大学近くの書店で偶然手に取った書籍が『指圧療法』でした。大学は神田にあったので医王会とは目と鼻の先です。早速ハガキを書き連絡を取ると、講習会があると返信がありました。これが経絡指圧との出会いでした。

学者然とした増永先生に驚く
創始者の増永先生はおよそ京都帝国大学を卒業された風はなく、庶民的であけすけな感じです。痩せた体形で着古した白衣を着たオジサンとの印象でした。返信はがきの礼を言った時「ああ、アンタか」と言われた事を今でも覚えてます。そこで初級講習会の手続きを済ませ、以後8回の全身指圧の実技を修めたわけです。初級講習会が終わって増永先生の指導による中級の講習会へ進みました。ところがヨレヨレ白衣のオジサンだと思っていた先生は、いざ講習が始まると学者然としたきりっとした雰囲気に変身。しゃべりは饒舌です。とにかく熱意がある。これまで見てきた大学の先生とは違って「これこそ学者」。そう思いました。自分が経絡指圧を続けていたのは、それが面白かった事もありますが、増永先生の一途な学者然とした姿があったからです。

●指圧に嵌まり、大学は落第…
それ以降は指圧に熱中。大学へは行かずに、医王会へ入り浸りになります。アルバイトも医王会の近く、浅草田原町で新聞売りをしたり…。とにかく指圧、指圧でした。自分で言うのもなんですが、アマチュアのくせに腕は結構良かったのです。ファンも居ましたし…。しかしその熱心さが裏目に出て成績はガタ落ち、落第しました。学科長に呼び出され「そんなに好きなら大学を辞めなさい」とも言われました。

●青雲の志むなしく、だめサラリーマンに…
さて四年になって卒業の頃、一応民間会社に就職が決まりました。その報告に医王会に行くと、知り合いの職員や仲間から「エッ、指圧師になるんじゃなかったの?」と驚かれました。指圧が好きなのはあくまでも学術面だけで、職業としては全く考えていませんでした。
そして希望に胸を膨らませて社会で出た私は、営業部に配属されました。しかしこれが全く芽が出ず、成績は常に最下位。配転、配転、窓際…。これではいけないと思って転職を決意します。

●指圧学校、夜間部に入学する
新しい転職先は前職と違って天国でした。同じ営業職でしたが、電子血圧計のベンチャー企業なので大雑把なのです。ただ大学病院の医師と話をするにも人材がいない。その点医学知識もあったので重宝されました。そして会社に「仕事に必要だから」との理由で、許可を貰って指圧学校に行ったのです。もちろん夜学です。しかし久しぶりの学校は楽しいんですね。実は今の奥さんともこの学校で知り合いました。

●退職そして経絡指圧普及会の設立
指圧学校を卒業し、無事ライセンスを手にした私は仕事に完全復帰します。ところが一年程して会社の業績が悪くなり倒産。兄弟会社に吸収合併されました。職種も変わり大阪転勤の辞令をもらいました。33歳くらいだったと思います。その頃はもう結婚していましたし、経絡指圧のセミナーも行っていたのです。ですから東京を離れる気は毛頭なく、指圧一本でやって行く決心をしました。これが経絡指圧普及会設立の過程です。

●山あり谷あり、しかし…
ただいかにも恰好良く聞こえますが、実際は山あり谷ありです。先にも書いたように指圧師になるつもりはなかったわけですから、どうも腰が据わらないのです。その点ウチの奥さんは別で、指圧が好きで指圧師になったようなので熱の入れ方が違いました。留学経験もあり前向きです。
経絡指圧が私の手でこれだけ伸びたのは、私に素地があったと言うよりは奥さんの力が大です。私は組織人としては落第でしたが、指圧に関しては増永先生の仕込みのお蔭か、何となく分かるんですね。でも「そうか。わかった」で終わり。欲がない。一方奥さんは「ああして、こうして…」と夜中も考えていると言う…。そして「こうしよう」となる。当会の講座プログラムは全て奥さんが立案したものです。私はその尻馬に載ってテキストを書いたり教材を作ったりしたのです。ただこれはトップシークレットですけどね…。